御園生のカンボジア紀行

突然ではあるが、ぼくはカンボジアの人たちをイタク尊敬している。 どうしてかって、ぼくら日本人はたかだか5年程度の戦争経験しかないうえ、その全てが他国への侵略でもあったため、国土が空襲以外の戦火にさらされたことはない。にもかかわらずいまだに日本の老人たちは「あの戦争の頃は…」だとか、「戦時中に比べて最近の若者は…」などと戦争賛歌をのたまっているが、カンボジアの人たちはじつに30年以上にわたって国土が戦禍にさらされる体験を経てきているからである。しかもカンボジア人自らが他国を侵略した戦史は近代以降まったくないにもかかわらずである。これはもう尊敬に値することである。無論それは戦争を続けてきたことへの賛辞ではない。長い戦争を体験しつつもなおかつ国家として存在していることへの驚きである。おそらくぼくのメンタリティでは間違いなく耐えられないだろう。そんなカンボジアって、いったいどんな国なんだろう?? 今回のぼくの初訪カンはそんな動機からはじまった。
 もちろんそれ以外にも、紅顔の高校生の頃夢中になったベトナム反戦運動の集会の中で報告されていたプノンペンやアンコールワットの印象は、なんだか遠い夢のような国の風景として40過ぎのオジサンになってもぼくの心の中にマーキングされ続けてきた。あるいはかつて日本の「サヨク」の人々に旧東ドイツと並んで「社会主義のモデル国家」とまでもてはやされた民主カンプチア政権(ポルポト政権)時代の検証と総括を、かつてのサヨク少年だった自分のなかで決着させるための旅でもあったのだ。

今回の目的地である、小学校の修復計画現場のチュロイコール村へは、プノンペンから国道7号線を経由して、かつて政府軍と解放軍(ポルポト派)との激戦地だったコンポンチャムの町を経由し、メコンをフェリーで渡り、そこからさらに車で3時間あまり、広大なゴム農園の中に位置する静かな村である。車2台に分乗して(内一台はなんと永瀬さんの運転!さすがに怖くて里帰りしていた在日カンボジア人のワングさんの車に便乗させてもらった。いったい免許はどうなってるんだ?)僕らは向かったのである

プノンペン限らず、カンボジアの町はまさに交通ルール無法地帯である。バイクは街中をガンガン飛ばすし、歩行者が道路を渡るのも命がけ、そもそも信号なんて代物は旅行中に一回しかお目にかからなかった。車もちょっと郊外に出ると凶暴なくらい飛ばしてくる。そんなところをよく運転できるよなア・・・とひとしきり関心。 それにしてもコンポンチャムまでの道はさほどでもなかったが、フェリーを降りてからの道はツギハギというか、それはすさまじいありさま。突然月のクレーターみたいな大穴が頻繁にあいているところがある。そんな道を現地の人はバイクでガンガン飛ばすんだからまたすごい。車の中でなんどあたまを天井にぶつけたことか。僕ら夫婦は乗り心地の良い乗用車だったからそうでもなかったが、それでもついた頃にはおシリがシビれてしばらく感覚がなかった。 その上予告なしに道路を横切る人間や動物、特にデカいウシにはビビる。あんなもんにあたったらそれこそ大破間違いなし。しかも放し飼いの牛がたくさんいて、皆ガシガシ道のどまん中を歩いてくる!。いったいウシをひき殺したら、(こっちがひき殺される可能性さえある)その弁償はいくらなんだろうか、とか、カンボジアの車両保険はウシにぶつかっても利くんだろうか、などといらぬ心配をしてしまうくらいである。

ふと周りを見渡すと果てしなく続く田んぼの所々に線香花火が開いたようにたつ砂糖ヤシの樹。一ノ瀬の写真から抜け出てきたようなカンボジアの現風景が続く。ああ、これがあこがれていたカンボジアだア!などとおシリをさすりながら降り立ったところがチュロイコール村だった。

とにかくやたらカッコイイお坊さんに案内されて小学校の修復現場へいく。永瀬さんが真剣に修復計画を村長や校長先生と相談している間、ぼくは日本カンボジアの友好関係を築くために村の子どもたちととしばし歓談。とはいっても言葉が全く通じないので、お得意のボティランゲージで押し通す。またこれが面白いように通じない。でも恥ずかしがり屋で明るい子どもたちとはなんとなく友達になれちゃうのがまた楽しい

聞けば現地では3千USドルもあれば小学校が作れてしまうらしい。ぼくの持っていたデジタルカメラ2台分で小学校が建ってしまうことになる。なんだかそれ以来カメラを出すのが恥ずかしくなってしまったのは何故なんだろう?
翌日はカンダール州の村に橋の建設現場を視察のために向かう。同じようなデコデコの道の途中で昼ゴハンのために立ち寄った名前もよく分からない村で、今回のぼくのカンボジア旅行での最大の出来事が起こったのだ

それは特に大事件があったわけではない。カンボジアの何の変哲もない田舎のたまたま食事のために立ち寄った村のことが、アンコールワットやキリングフィールドよりなぜあんなに忘れられないのか、おそらくそこで「もらったもの」の大きさだだったのだろう。
食事の用意のために3時間(これがまたカンボジアらしい!)ほど滞在する間、もっぱらぼくらのお相手は子どもたち。長い戦争の経験をミジンも感じさせないような彼らの表情からは、おシリの痛みなどわすれてしまうようなたくましさと明るさを感じる。  村の人たちは私たちのためにニワトリを料理してくれたのだが、その料理のおいしかったこと!時間かなくなっちゃって、ちゃんと味わう時間がなかったのが今回のカンボジア旅行での唯一の心残りだった。料理といっても単にニワトリを丸のまま塩茹でしただけの簡単な料理だったが、なんであんなにおいしかったのかなあ?永瀬さんはいい人だけど、あの食事を残してきたことだけは許せない。食べ物の恨みはこのように奥深いのである

というわけで、なんだか道のことと、料理のことしか書いてないみたいだか、最後に一応それらしくカンボジアの印象などを書かなければならない。
 カンボジアはぼくら日本人にとって単なる常夏の国のひとつなのかもしれない、そういった視点でいけば、おそらくあんなに不便な国はないだろう。しかし帰ってきて一ヶ月がすぎようとする今でも、なぜあんなにぼくの心をひきつけるのだろうか、ベトナムやタイに旅行しても決して感じることのなかった「懐かしさ」がこの国には溢れている >なによりもカンボジアに行くことによって、ほんの少しだけやさしくなれて、いままで身の回りの見過ごしていた様々な社会の矛盾に気が付かされるようになるかもしれない。また、日常の物事を今までと違った角度で見たり、理解したりするきっかけになるのかもしれない

まさにぼくにとってのカンボジアの大地は、いままでの自分の生き方を根本から問い直すきっかけを与えてくれた気がする。キザな言い方だが、ボクにとってのカンボジアは、まさに「転生の大地」だったのかもしれない。
プノンペンの街角や、郊外のゴミの山や、またアンコールワットで見かけたたくましく、したたかに生きる子どもたちの姿は、ぼくたちにそんな「問い直し」を突きつけているような気がしてならない。いまになってカンダールの村の子ども達からなにかをもらったのかが、おぼろげながらもわかりかけてきた。  
おそらくボクはまた間違いなくカンボジアに行くだろう。それはなぜか?その理由はあのカンダールの村であった子どもたちの笑顔にある。

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